現在の経営者、エスコ&ヤーナ・ヒェルト夫妻は、テキスタイルの家業を受け継いで4代目。
誕生秘話は、今からなんと、約100年前まで遡ります。
当時は貧しく、物資のない時代。ラプアン カンクリが生まれた町、ラプアには、昔から小さな町工場がたくさんあり、木工、テキスタイルなどの手仕事が盛んでした。
1917年、エスコの曾祖父、ユホ・アンナラが廃材と手拠りの毛糸でフェルトブーツを作る会社を設立。その後、息子や兄弟たちが事業を受け継ぎ、軍で使用するブランケットやクリーニング業、毛布の製造など、時代のニーズに合わせて形を変えていきます。
ラプアン カンクリ創設のきっかけとなった、エスコの曾祖父が経営する工場の様子(1950年代)。
ウールは糸から紡がれており、すでにジャガード機が導入されていた。
『ラプアン カンクリ』という名の会社を設立したのは1973年のこと。エスコの父がジャガード機を導入し、フィンランドの伝統であるタペストリーの生産を開始。「これからの時代は、規模は小さくても、専門的な技術に専念することが大切と父は悟ったのだろう」とエスコは考えます。
父から息子へバトンが渡されたのは、1990年代。15歳の頃に出逢ったエスコの妻・ヤーナも、生産から販売まで、若い頃からラプアン カンクリを手伝っていました。エスコが大学でテキスタイルの技術を学び、ラプアに戻ってきた90年代のフィンランドは不況で、なにか新しいことを発案する必要があったのです。
そこで、ヤーナが市場調査をし、フィンランド製の麻の需要が高まっていることに着目。その頃、ジャガード織りで麻の製品を作る会社がなかったことから、エスコが始めることになりました。
エスコの両親。写真左から、リーサとユハ。ユハは、今も時折ラプアン カンクリの工場へ顔を出すみんなのムードメーカー。
ほんの小さな工場でしたが「だからこそ、できることがある」という祖父から受け継いだ誇りが、エスコとヤーナの心を突き動かしたのでしょう。エスコは「小さな工場だからこそ、世の中の変化に柔軟に対応ができ、経営が長続きする秘訣なのだ」と。
たとえば、麻の糸は切れやすく、織るのも難しい素材。糸が切れると、必ずひとの手が必要になってきます。機械織りとは言え、柄を織り上げるジャガード織りは、織るスピードも決して速くなく、大量生産には正直向きません。
端の折り方も特殊なので、細心の注意が必要です。また、オリジナルの色に染めた糸から製品を織り上げることにもこだわり、手間をかけ、特別な商品を作り出しています。
エスコが学んだテキスタイルの専門知識に、妻・ヤーナのマーケティング力が加わり、国際的に名高いブランドに飛躍。現在、100年を超えて培ったリネンやウールの専門性を生かし、暮らしに寄り添う日用品(テキスタイル)を、ラプアから世界へ届けています。